GAROとヘアーと庄司薫、の時代
う〜〜〜〜ん・・・・・。 ライブに向けての曲選びに難航しております。 次回、次次回、次次次回・・・・・・・
やりたい曲が増えすぎてるんです。
でも、最近やっている曲だけじゃなく、昔やってた曲の中にも いいのがあるかもしれない・・・・と困惑中。
で、気まぐれに今までやった曲の楽譜をあさっていたら、 『Good Morning Starshine』なんていう、 超々々々々、なつかし〜〜〜〜い楽譜が!
あぁ、そうそう、私がGARO(雑誌じゃないですよ)を大好きになった ころ、彼らのセカンドアルバムのB面が洋楽カバー曲オンリーで、 その中にこれが入ってたんだっけ・・・。 故・トミーの声がメチャクチャいい感じにハスキーで、 大好きな曲だったなぁ・・・なんて、懐古。
♪グッドモーニングスターシャイン〜 輝いて〜〜 その光を〜 いつまで〜も〜〜・・・
この曲、ロックミュージカルの「ヘアー」って作品に使われた曲で、 当時・・・だから’69年ごろだと思うけど、 ウィリアム・オリバー・スウォッフォードってシンガーソングライターが、 このミュージカルのために書き下ろしたそうなんですね。 サビの「♪Gliddy Glup Gloopy・・・la−la−la−lo−lo−」 ってところがとにかく好き。 あと「♪Early morning singing a song!」ってとこも。 ♪Sing the song,Song the sing〜〜・・・ はぁ〜〜、この曲、楽しいなぁ。 GAROバージョンのトミーも、ホントにいい声してました。
「ヘアー」はこのミュージカルのあと、映画にもなったんですよね。 昔TVで放映されて、奔放なアメリカンヒッピーに憧れたものでした。
で、この曲も、確か終わりのほうの、車で一本道を走っちゃうぞ〜〜! Yeah〜〜〜〜!!!!♪♪♪ヤッホーアメリカ〜〜〜!! みたいなシーンで流れてきて(笑)、心の中で 「超カッコイイ!!いいな〜こんな時代に青春を送りたかった〜!」 なんて、さらに憧れたものです。 (一体私は何歳だ?’70年代生まれだぞ?)
余談ですが、私は「いちご白書」をやはりTVで見たときにも バリケード登場のラストのほうになればなるほど、 くぅう〜〜、こんな青春、送りたかった〜〜〜!!! などと憧れた、ホントに変な女の子でした(笑)。 さすがにラストシーンは何だかイヤだったですけどね。 やっぱり後味悪いですね、ああいうのは。 でもあれがリアルなことだったんだからしょうがないか。
ちなみに「ヘアー」のミュージカル版ブロードウェイ初演が’67年、 日本での初演が’69末〜70年頭、 映画版が’79年ですって。 え?!映画版って’79年なの???? そんなにあとだったのかぁ〜・・・・世の中ディスコ時代じゃないの。 「サタデーナイト・フィーバー」も過ぎ去ってたころじゃない? なんでそんな時代になってから撮ったんだろ。。。
また、映画「いちご白書」が’70年の公開。 で、『「いちご白書」をもう一度』は、その5年後ですね(笑)。 あ、この曲のことはまぁいいか(笑)。
日本版「ヘアー」のミュージカルは、:今見るとすごいメンバーというか、 けっこういろんな人が参加していて、その中に、GAROのうち、 2人が出演してたんですよ。 故・トミーだけが出てなかったんですね。 (ちなみにこのころはまだGAROは結成してませんでした)
でもホントは、トミー、オーディションは受けてたんですよ。 確かこのオーディションがあるというのも、 トミーが真っ先に仕入れた情報だったと思います。 で、オーディションが進むにつれ、ミュージカルですから ダンスの審査があって、でもどうやら「まぁ適当に踊って」なんて 課題だったらしいんですけど、トミーがイマイチ踊るのが 好きになれなくて、途中棄権しちゃったそうなんですよね。 で、いろんな意味で有名な川添象多郎(川添象郎)さんが このミュージカルをプロデュースしてたのですけど、 もちろん才能豊かなトミーにも目をつけていたのに、 途中からいなくなっちゃったものだから、 おいおい???・・・なんて状態だったらしいです(笑)。
でもミュージカル自体は2ヶ月もやったかどうかで、 途中で不祥事があって打ち切りになってしまったので、 トミーも無理して出ることもなくよかったかもしれませんね。
あれ?トミーが亡くなって、9月でもう24年? 早いな〜〜〜。 あの日のショックはまだ色あせないですけどもね。。。
ところで、話がいろんなところへ飛ぶんですが、 「いちご白書」の原作の舞台になったコロンビア大学に、 NYを訪れたときに、行ってみたことがありました。
でも、映画のほうは確かサンフランシスコの大学が舞台で、 結局、私ってば、サンフランシスコにも行ったんですよね(笑)。 サンフランシスコにはヒッピーのなごりといわれるHaight
Ashburyって 町があって、そこにも行って、ギターピックとか古着とか買いました。 (でも古着屋さんに「クレヨンしんちゃん」とかのTシャツが普通に 売ってるんですよね(笑)。アメリカまで来て、ムード台無し)
コロンビア大学のほうだけ話すと、日本と違って、広いですから、 いろんな施設をぐるりと回るだけで結構時間かかりました。 年末だったので学生はいませんでしたけどね。
大学自体は、やっぱりすごくマジメな大学!!って感じで、 最近の日本の大学にありがちな近代的な建物や施設は、 あまりありませんでしたね。(少しはあったかな?)
真冬の一日、歴史ある建物を見つめながら、「いちご白書」の いろんなシーンに想いを馳せたりしました。
あ、校門の近くにサンドイッチカフェがあって、「ツナサンド」を 注文しようとしたら、「Tuna」の発音がなかなか理解してもらえず、 なんでじゃ〜〜〜!?!?!?と哀しくなりました(苦笑)。 私、タ行から始まる単語の発音があんまりよくないみたいです。 「チキン(Chicken)」もアメリカだと伝わらないんですよね〜。 イギリスだと大丈夫なんですが(笑)。 タ行恐怖症です。
ちなみに、この「いちご白書」の中で使われている曲に、 ジョニ・ミッチェル作の『サークル・ゲーム』というのがあるんですね。 かなりヒッピー色の強いバフィ・セントマリーというカナダの女性歌手が 歌って、ジャケット写真なんかもホント、時代の雰囲気を感じます。 で、もちろんジョニ・ミッチェル自身も歌っていて、そちらは結構 フォーク調です。 なんでも、ニール・ヤングへのプレゼント曲というか、 アンサーソングだったとか。 で、これ、アグネス・チャンもまだ香港のフォーク歌手だったころに 歌っていて、そちらもなかなかいいですよ。 で、ちなみついでに、私もライブではカバーさせていただいてたり して(笑)。イントロが面白いんですよ。メロディーもハマります。
で、また話が飛ぶんですが、こんな映画を見たりして、 「’60年代〜’70年代っていいな〜」なんて憧れを 子供のころから抱いていた私。
久しぶりにあのころを振り返ってみるか、なんて。
私が幼稚園児のころでも、有楽町とか新宿あたりに行くと、 まだチューリップ帽(←こんな言い方、今しなくなっちゃいましたね)を かぶって、サングラスをかけて、ヨレヨレでピッチピチのTシャツを 着て、ギターで反戦を訴える人が時々いたんですよ(笑)。 あ、たいていチューリップ帽は黄色ね、何故か(笑)。 (桜田淳子ちゃんかっつーの(笑)。あれはエンジェルハットか(笑)) それか、いろんな色のカラフルな細いストライプ柄。 ズボンもジーンズって言うより、綿っぽい素材の、やっぱり ピッチピチで、裾だけややベルボトム、みたいな。 で、そのズボンも無地よりも、たいてい細いストライプ柄なの(笑)。 サイケともまた違う。中途半端なサイケ、みたいな(笑)。
あと、早稲田通りを歩いていると、機動隊が走って行ったりして。 ああ、この先で何かが起こってるんだな〜、と思いながら、 幼い私は母の足取りに合わせて一生懸命歩いてさ、 そしたら、スーパーで母が買ってくれた安い靴のかかとが 折れちゃって、泣きながら歩いたりしてさ(笑)。 そんな思い出があります(笑)。
また、幼いころからジャーナリズム精神に溢れていた(?)私は、 当時、新聞やニュースを父とよく見たりしたのですけど、 「あさま山荘事件」で死刑求刑だの死刑判決だの、 そんな衝撃的なニュースがすごく印象に残っています。 これか「ロッキード」(笑)。あ、あと「よど号」も。 数年間はこの話題が尽きなかったという印象があります。
で、時が経つに連れ、革マルだの内ゲバだのアジテーションだの セクトだの全共闘だのって言葉が、すっかり死語に・・・。 「革マル」なんて言ったら「え?金丸信さんのことですか?」みたいな 時代になっちゃって(寒)。
まぁこの辺の思想主義的な、難解&深〜い部分にはあまり興味が なかったので、こんな話はおいときまして・・・。 ’70年代も遠くなり、世の中がバンドブームだ、ジュリアナだって 時に、私は何となく「赤頭巾ちゃん気をつけて」を 読んでみたのでした(笑)。
「赤頭巾ちゃん御用心」じゃないですよ。 それはレイジーですから。 ♪君に電話しても〜いつも話し中さ〜今日もまた〜 誘いの電話だね〜・・・・・
「赤頭巾ちゃん気をつけて」というのは、ピアニストの中村紘子さんの ご主人の庄司薫さんが書いた青春(?)現代小説で、 ’69年出版当時、大ベストセラー、芥川賞まで受賞した作品です。
どこでこの物語を気にするようになったのか、きっかけが 思い出せないんですけど、とにかく文庫本を買いました。
面白かったですね〜〜〜〜〜〜〜。 これは面白かった!!!!
内容としては、’68〜69年の日大&東大紛争のあおりを受けて、 この年は東京大学は受験を中止する、となってしまい(事実)、 日比谷高校から東大受験を目指していた薫くんは、 この年の東大受験ができなくなってしまった。 そんな薫くんの、朝から夜までのある一日を描いた物語です。
あ、念のため書いておくと、この物語の主人公は「薫くん」という 名前ですが、庄司薫さん自身の体験話ではなくて、 あくまでもフィクションです。 庄司さんはこのころ、デビューして10年が経ち、もう30代でしたから。 デビューしたころは「福田章二」って本名を使っていて、 「章二」=「庄司」、と改名されたんだと思います。 ちなみに、デビューしてから「赤頭巾ちゃん・・・」が出るまで10年間、 なぜか表舞台に出なくなっていた謎の作家さんなんですよね。 まぁ今も表舞台に出ませんけど(苦笑)。 株や不動産で儲けたんですって。いいなー。
で、この「赤頭巾ちゃん気をつけて」。 映画もTVで放映されたときに見ましたね〜。 薫くん役は、いまや東映の社長さんになられた(お父さんが社長さん だったから当然なんだけど)、岡田裕介さん。 私が高校時代に調べた資料によると、この映画には 石坂浩二さんをイメージしていたのだけれど、 (まぁ庄司さんってちょっとそんな感じのルックスでしたし) 石坂さんじゃ高校生役はもう無理があるんじゃ?なんて議論が あったかどうかは推測ですが(笑)、 とりあえず、石坂さんによく似ている上に、石坂さんと大学まで同じ だという岡田さんに白羽の矢が立った、と記憶しています。
岡田裕介さんというと、私はあまり映画を見ないので勉強不足で 申し訳ないのですが、もうひとつ覚えている出演作品は 薬師丸ひろ子さんの「ねらわれた学園」の担任の先生役ですね。 あの映画を見てから「赤頭巾ちゃん・・・」をさかのぼって見ても、 何の違和感もない、ってくらいに、特徴が変わってません(笑)。 特に声。不思議な声なんですよね〜。ネチョッとしてて(笑)。
映画では、あと有名な人では、山岡久乃さんが出てましたね。 クジャクみたいな帽子をかぶっている、近所のおしゃべりおばさんの 役で、ホントに最初のほうにだけ出演してます。 「残念ね〜、東大。で、どうするの?京大のほう?でもそうよね〜、 やっぱり東大がいいものね〜」とペチャクチャ喋り捲ってました。 あと、薫くんのお兄さん役で中尾彬さんが出てくるんですよ。 いまとイメージが違うので、ちょっとビックリします。
まぁとにかく、朝から足の指の生爪をはがしてしまってアリャリャ〜、 と、足を引きずりながら医者に行ったり、お蕎麦屋さんに入ったら いしだあゆみさんがTVで歌ってたり、家に戻ったら兄のお見合いが 始まってたり、親友がやってきて政治論&人生論を一人で泣きながら 語りだして「くだらん」と一言残して帰っていったり、夜に町へ出たら 幼い女の子に痛いほうの足を踏まれてアチャチャー!となったり、 最後はGFの家に行って、「いろんなことがあってね・・・」と語る。 そんな話。 アタシ、舌かんで死んじゃいたいわ。そんな話(笑)。
これ、映画を見てから小説を読んでも、絶対に面白いと思います。 映画のほうは、当時のサブカルチャー的な部分も出てきたり、 アグレッシブな心象シーンを多用していたりと、 一度見ただけだとなかなか薫くんの気持ちや人物像を捉えるのは 難しいと思うんですよね。 だから、一度、小説も読んでいただきたい!!と、 ’60〜70年代を好きになってしまった若い方にはぜひとも 訴えたい私です。
小説のほうは、もう庄司さんの文体がメチャクチャ衝撃的で、 これは大ヒットするわ〜、と納得納得です。 え?ライ麦畑?知りませんそんな事は。いいんです別に(笑)。
この小説に影響されて、当然「白鳥の歌なんか聞こえない」、 「さよなら怪傑黒頭巾」、「僕の大好きな青髭」、と、 薫くんのカラーシリーズ全部買い揃えて、一気読みしました。 毎日読んでましたね。 新しく買ったCDコンポにも「薫くん」と名づけていたくらいです(笑)。 エッセイ集も買いましたよ。 「ぼくがネコ語を話せるわけ」「バクの飼い主目指して」とか、 デビューのころの「喪失」とか、「狼なんかこわくない」とか、 片っ端から買いました。 中村紘子さんとのご結婚のいきさつも面白くて、ユニークでしたね。
しかも、毎度のことながらアレなんですが、 ご自宅にファンレターまで出しました(爆)。 残念ながらお返事はなし。でもいいんだ。満足なんだ(強がり)。
ん〜、割と近くだったから、直接行くって手もあったな・・・・(悔)。
あと、なぜかわかりませんが三田誠広さんの「僕って何」なんてのも 読みましたね。あはは。 ホント、「あたしって何?」って感じですよね(笑)。
でもとにかく、庄司薫さんの薫くん4部作はホントに何回読んでも 面白いです。 新宿の紀伊国屋だったか、そのあたりの地下に、ダルな若者が 集う喫茶店?があって、そこでカリスマ的な謎の人物を待つ・・・ そんなことが本当にあったのでしょうか。 想像の世界で、ワクワクしながら読んだものです。
実際にこの時代に私が高校生や大学生だったとして、 果たしてこんな熱さと混沌さとが共存した学生生活に興味を持ったか どうかというと、それはわからないです。 意外に「くだらないことやってんじゃないわよ!!」なんて、 反骨精神で、学生達のほうに立ち向かっていってたかも・・・・・。 そっちの可能性が高いです(苦笑)。
そういえば、私の通った高校の真隣が、都立の青山高校という学校 なんですね。 で、この青山高校(通称・青高)というのが、’60年代後期からの 大学紛争の中で、高等学校としては最初に学生運動を 始めたとこなんですね。 で、それから約20年が経っていても、鬱蒼としたツタが絡まった すごく高い塀があって、その向こうに辛うじて、部活動の部室ばかりが 集まってるらしい、ボロい建物が見えました。 その古めかしい外観はどう見ても、学生運動のなごりでした(笑)。 青高では、運動を制圧するために、高い塀をこしらえた、という話を のちに聞いたことがあります。
(お隣の学校がそんな事になってる同じ時代に、落語研究会で 生徒達を笑いの渦に巻き込んでいたさだまさしさんって、 やっぱすごいわぁ。 というか、うちの高校って昔からホントにノンポリなんだわぁ(汗))
で、その道を歩かないと私の高校にたどり着かないので、 毎朝、ジメジメ〜っとした灰色の高い高い塀と、生い茂ったツタを 寒々しい思い半分、懐古気分半分、という気持ちで見ながら、 ボロ校舎から聞こえてくる軽音楽部の朝のバンド練習をBGMに、 登校していたのでした。
やがて私も高校を卒業し、大学の教育実習で久しぶりに母校に戻り 懐かしい通学路を歩いたら、もうその塀もボロ校舎も、 キレイサッパリなくなっていて、塀の代わりにフェンスになって、 外からも、学内の校庭や新しい校舎が見渡せるようになって いました。
歴史はこうして忘れ去られていくのですね。
「Good Morning Starshine」から、なぜか青山高校の話へ・・・。
今日は話が色々飛びすぎました(苦笑)。
早く選曲しなくちゃ!!!!!
(written at 2010年5月)
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